久しぶりです。
あっという間に月日がたちブログを書く気分も失せてしまって遠ざかっていましたが

(もちろん元気なんですが)
ふと思ったことを吐露したい気持ちになり書くことにしました。


日頃活動されている作家であり私の恩師でもある先生が言うには


「奇跡は黙って待っていても起きない。常々の思いと努力と行動があってこそチャンスも奇跡も起こるのだ。」と。


日頃の地道な活動や平和や人とのつながりに対する真剣な思いから、ふとした縁からチャンスが開けてきたからこそまた、思うように進まなくても、そう信じることによって未来のためにあきらめない、という信念には説得力があります。


教員をしている友人も

「同じ位の学力を持った生徒でも受験に受かる生徒と落ちる生徒の違いは"絶対受かる"と信じているか、ちょっとでも"落ちるかも"と不安があるかだったりする。」
信念や思いの差は大きい、という話になり


「確かに、違いはあるかもしれない。確かにチャンスがあった人、奇跡を起こした人は皆、行動や思いや努力があったと思う。でも、多くのそういう人の中で、一部の人だけがその奇跡にあやかれるのではないか?って思うんだよね。」と言うと


「その差がその思いの差、信じているかどうかの差だと思う」と。


うーん、でも例えば家族や親しい人が病気になったり災いで行方不明になったとしたら誰もが無事を強く願うでしょう。
それはもう、命がけで願うでしょう。
それが助かったりそうじゃなかったり、というのは個人の思いや信念を超えた力にあって、どうすることもできないでしょう。
それでも信じて祈るしかないけど。


これは1例だけど、信じ方や思いの強さではどうしようもない力があって、奇跡はその一部の人だけに起きるんじゃないかって。もちろん日頃の行いも思いもなければありえないとしても。


そんな考え方じゃチャンスも奇跡も逃してしまうのかなあ。

いよいよ映画化された「I love shopping」 ←イタリア語訳のタイトル。

シリーズ5まで本で読んだ私としては、ちょっとがっかりでした。

予想では1巻のストーリーで終わっといて、映画もシリーズ化するだろうとふんでたのですが、

3巻までの内容がばらばらに入っていて、そのわりには、大事なシーンがいっぱい抜けていて.....

あれじゃあ、レベッカの魅力が全然出ていなくて、ただのお買い物好きな、しかも嘘つきまくりの軽薄な女の子で終わってしまっていて。


例えば、映画に出てなかった私の好きな1巻での話では、

オリジナルの写真たてを作ってお店においてもらえるようになったルームメイトであり親友のスージー。

レベッカはお店に行って、「これ素敵よねえ」と店中にいいながら、写真たてを買う。

何も知らないスージーは「好評らしいの、再注文が入ったわ。」と喜んでいて。

ある日、レベッカが「見ないで」というのを押し切って、彼女の部屋の掃除チェックに入ったスージーが見つけたのは写真たての山.....(ここは、映像で演出したら、きっといいのになあ、と思いながら読んだので)


仕事に打ち込むときも、自分の知り合い(実家の近所)の夫婦が投資をしていて「はめられた、騙された」というのを知り、俄然、証拠つかみに走り、記事を書き....とことん「正義」ひとすじ。


そんな友人思いなところ、そのためには損得なしにまっすぐなところ、また黙っていても求愛されるヒロインたちとは違って、自分からアピールしたり落ちこんだり、悩んだり、といったところが、「お買い物狂」や「見栄のための嘘」などに理解できなくても、共感できたりするのです。


ついでにいうと、男性役の「ルーク」の意外な魅力。

ハンサムで若いのに仕事もトップで、お金持ちで、優しくて、頭も良くて、ということなしに書かれているルークですが、私が「あ!」と思ったのが「Hai ragione」(君の言うとおりだ)と言った箇所。


だいたい、男性って意見が一致しているときは、「そうだね。」と肯定の言葉を連発するけど、食い違っていた意見が突然「君のほうが正しい。その通りだ。僕が間違っていた。」と言うでしょうか?イタリア人だと女性もまず、言いませんねえ。

絶対、どちらも譲らない.....(オリジナルの舞台、イギリス人は譲り合うのでしょうか???)

でもこのルークは5巻までにいたって、何度も言うのです。別に彼に非があったとかそういう場面ではなく、ビジネスの話をしていたりとか、本当に「意見」の違いにおいて。


また、これら、彼ら登場人物たちの魅力とともに、本で面白かったのは「窮地からの一転」の連続。

仕事も恋も、友人とも、「もうだめか?」と思えるほど、いや、実際現実的には「だめになってしまう」ケースがわかるだけに、リアルに思えるほどどん底まで落ちこむのだけど、なぜか逆転、ハッピーエンド、そこが読後感がいいのだと思います。


映画ががっかりだっただけに、1話ずつオチのある章ごとに、ドラマ化してもらいたいと思うところです。


関連過去記事

I love shopping a NewYork

いろいろ面白い話があったので紹介してみます。


「絶世の美女」
おとぎ話や童話には必ず美女が登場する。それも、この世のものとは思えないほどの類まれな美貌に恵まれ、権力を握る男たちを支配になるほど絶大なのである。...中略
きっと昔の人々のかなわぬ夢や願望を体現したにすぎないのだ。
現実の歴史の上のことでも、事実というよりは記録、物語を面白くするための、誇張や虚構がふんだんに取り込まれているはずだ...


でも、ある日、サーカスに感動しない子どもたちを見て気づく。
子どもたちは幼いころからあまりにも多くの美しいもの、すごいものを日常的に見過ぎている。見飽きているほどに。テレビという現実模写能力を通して。
宇宙からの景色も、戦争の現場も、ジャングルの奥地も、そして美女も。
かつては一人の人間が一生に一度会えるか会えないほどの美女たちを、(より正確に言うと美女のコピーに)毎日何回も見ることができるのだから、感動や驚きがすり減っていかないほうがおかしい。
というわけで、「絶世の美女」はおそらく現実にも存在したのだ。テレビのなかった昔は。


「グルジアの居酒屋」
グルジアの首都トビリシに楽しい居酒屋があったのだが、1991年のソ連邦崩壊前後からグルジアでは国内の大小の民族間の紛争と野心家たちの権力闘争が絡まって外国人が行けるようなところではなくなってしまった。
10年後、戦火の爪痕も生々しいトビリシを訪れ、昔と変わらない居酒屋の掲示板に書かれてあったこと。


「飲酒が宗教を信仰するより優れている8つの理由」
1.未だ酒を飲まないというだけの理由で殺された者はいない。
2.飲む酒が違うというだけの理由で戦争が起った試しはない。
3.未成年に飲酒を強要することは法で禁じられている。
4.飲む酒の銘柄を変えたことで裏切り者呼ばわりされることはない。
5.しかるべき酒を飲まないというだけの理由で火あぶりや石責めの刑に処せられた者はいない。
6.次の酒の注文をするのに、2000年も待つ必要はない。
7.酒を売りさばくためにインチキな手段を講じるとちゃんと法で罰せられる。
8.酒を実際に飲んでいるということは、簡単に証明することができる。


この地帯を巻き込んだ凄惨な民族紛争の多くが宗教がらみだったことを、8箇条は雄弁に物語っていた。


「夏休みの宿題」
著者は小学校3年のときから5年間、プラハのソビエト学校で過ごしている。
そこでの初めての夏休み、宿題がないことに驚く。
友人「エッ、日本は夏休みまで宿題があるの?どんな?」
中略
「そんなにたくさん?遊ぶ暇がないじゃないの。エッ、日記まで提出するの?変だよ。異常だ。日記って本来自分自身のために書くもの。他人に見せないからこそ自由きままに好き勝手なこと書けるのに。他人に見せる日記書いたら、もうひとつ裏日記つけなくちゃ。」


著者は最近のブログブームにこのときのことを思い出したという。


本来秘められてしかるべき私生活をつづった日記を公開するという現象は世界中を見渡しても、日本人だけに見られる特殊な傾向らしい。
おそらく、昔、宿題の絵日記を先生に提出するというわたしの話を聞いた学友たちがぶったまげたように、他国の人々にとっては、理解しにくい心情なのだろう。
もしかして、子ども時代に絵日記という他人に見せる日記を書くことを習慣づけられたせいで、日記公開という世界的にもまれな集団的減少を生んだのか。それとも、もともと日本人にあった、日記露出癖が夏休みの絵日記という宿題を生んだのか、定かではない。


どのエッセイも面白い視点で書いてあって、かつ話題のジャンルが広い。
この先、彼女の新作を読むことができないということは、あまりにも残念なことだと思う。


関連過去記事


ガセネッタ&シモネッタ / 米原万理  


ガセネッタ&シモネッタ 続き  


ブログ人口

「おくりびと」を見ました。
死に対する考え方も、納棺師という仕事に注目したことも、たんに美しい映画というだけでなく、面白い映画でした。
また、とても日本的だと思いました。


例えば、主人公はチェロの奏者だったのに、オーケストラの解散とともに、チェロを手放してしまう。
音楽を勉強して、それを仕事としてやっていた人が、「解散」で全く別の道に行く、ということ自体、イタリア 人ならやらないと思う。(そこへ行きつくまでにかかった年月と莫大な費用なども考えられますが)
彼らにとっては自分が何のプロであるか、が、最優先されるし。少なくとも、しばらくは音楽の道で仕事を探す だろうと思う。


そう思うと、日本人は長年のキャリアをあっさりすて、全く別の道に行く人が多いように思 う。(私の周囲に多いだけかな?)
それはそれで、過去に執着のない、また勇気のある、あるときは自分に正直な行為だと思う。


話はちょっとそれますが、ちょっと前、高校時代の美術の恩師と会って話したとき


「あの頃は、実は教師をやめたくてしょうがなかった。美大の同級生たちの 活躍を見るにつけ、あせっていたんだろう。でも、まがりなりにも教師をしながらずっと描き続けたことによっ て、今の自分があって、同級生は今は絵を描いているのかどうかさえも聞かなくなった。」


「やめていった人が才能がなかったとか、続いている人の方が才能がある、 ということはないんでしょうし、もちろん才能がないと続けられないでしょうけど、やめた人にも才能があった 人はいるでしょう。先生は今では大御所ですけど。でも、続ける、ということに意味はあるでしょうね。」


「いつも似たような絵ばかり描くから、見るほうは飽きてくると思うんだ。 人の絵を見てもそうだし。自分で描いていてもそうだし。昔はそれから何とか脱出しようと悩んだんだけど、今 は悩まなくなった。同じ様な絵を描いていきながら、ふっと、ふっきれる瞬間があってね。君も今の絵を続けて いっていいと思うよ。」
という話になった。


また、ときどき 「続けること」の話 (←過去記事)を思い出しては、「あきらめずに続けるということ」にも意味があるんじ ゃないか、と思ってみたり、またあるときは「執着せずに、あっさり捨ててしまう」ことも必要かと思ってみた り。


.「欲やエゴや打算」ではなく、純粋に自分の気持ちに聞いてみても、答えが見つからないときがある.....

核問題が話題になっている。


北朝鮮のやっていることも、絶句というか、信じられないことだけど、平和な時代に育った現代の私たち日本人は、今行われているどの国の争いも、第二次世界大戦のことも、「どうしてそんなことを?」と理解しがたい思いしかないかと思う。


広島、長崎は原爆被爆地だということは、世界中の歴史で勉強するらしく、誰もがその名前を知っている。
でも、そのイメージしかないらしく、最近イタリア人に
「今は大丈夫なのか?安全なのか?」とか聞かれてびっくりした。


それもかなりインテリの年配の方だったし、その話を日本人の友人にしたら、イタリア人以外からもそういう質問をされたことがある、という話になった。
もう64年もたっているのに.......


でも、それだけ、「核の危険」のイメージが大きければ、世界的に核廃絶への道へ向かうのではないか、とも思えてくる。


イタリア人って、りんごもなしも、プラムもびわも皮つきのまま食べるし、ブドウの皮を口から出そうものなら「きたない!気持ち悪い!」と言われかねない。という話を以前にも書いたことがありましたが。


きゅうりに関しては逆で、皮をむくのです。


サラダとかに入っていると、食べてみてから「あれ、これきゅうり?」という感じ。

柔らかくて上品な風味です。


私はどちらかといえば、皮つきのほうが、色味のアクセントにもなるし、歯ごたえもあるので好きなのですが、農薬などの外側からの害のことを考えると、皮をむいたほうが、体のためにはいいのかもしれません。

日本のテレビ番組で、洋画や海外ドラマを見るとすぐわかるけど、画面は見なくても声を聞いただけで日本語なのに「海外のだ」ってわかりますよね。
声優さんはすばらしく真に迫っているのに、日本語としてわざとらしい、というか、話し方が大袈裟というか....
日本のドラマのように話したら映像と合わなくなってしまうのだろうな、と。



イタリアのテレビ番組でも、アメリカなどの映画や海外ドラマが多く放映されるのですが、これがまた、すぐわかるのです。
顔や、背景といった、映像を見なくても、語が違う!
イタリアの声優さんもすばらしくて、オリジナルの英語より演技派かも?と思えるほどなのですが、
すぐに「吹き替え」だとわかる。


なぜかというと「聞き取りやすい」のです。

吹き替えだから「標準イタリア語」なんですね。


イタリアドラマも喜怒哀楽の激しい表現をしたりするから、日本語で感じる「大げささ」というのではないのですが、普通にイタリア人がしゃべっている感じなのです。


でも「吹き替え」は違う...


前にも書きましたが、イタリアは映画館の映画もほとんど「イタリア語吹き替え」です。


「吹き替え」による「違和感」をあまり感じてないようにも思えます。




日本語で例えば

「コーヒー飲みますか?」
「いや、いらないです。」
「コーヒーは好きじゃないのですか?」
いいえ、好きなんですけど、今はやめておきます。」


と言ったりしますよね。この最後の「いいえ


これが英語だとYesですよね。

イタリア語でも私の知る限りの欧州語でもすべて「YES」なのですが。

例えば英語だと


"Don't you like coffee?"
"Yes, I like it. But now, I don't feel to take it."

とか。


ここが、頭ではわかっていても、自然に「Si」と言えるようになるまでに、私のイタリア語の場合、半年か1年くらいかかりました。


イタリア語の場合、

「好きじゃないの?」
"Non ti piace ?"

と最初にNoという言葉がつくから、余計、否定文で聞いているニュアンスがしませんか?
弁解ですが。最初から全く問題ない人もいるんでしょうけど。
"No"のあとで"Si"と言いなおして肯定文を続けるから「SiなのNoなのどっち?」と言われたり
「最初のNoが本音じゃないか?」と思われたり。


コーヒーを他の単語にしてみても同じことです。


そんなわけで、時間と失敗をかけて否定疑問文に慣れて、自然に迷わず応えられるようになったのですが。

今は日本語で否定疑問文で聞かれると、時々迷います。
特に文章で「---ではないほうでもない」「yes」「no」と選択肢があった場合とか、
ということはどういう意味??とか。



20年以上イタリアに住んでいて、店で販売員をしている人の話。
「最近の日本人の若い男の子、いらっしゃいませ、とか、何かお探しですか?とか接客しようとすると
"大丈夫です"って言うのよね。何なのあれ?大丈夫って?」
と言っていました。
「近づかないでくれ」って言うことなんでしょう。「今は見ているだけです、とでも言えばいいのにねえ」という
話になったのですが。


最近の日本ではよく「全然、大丈夫」という言い方をしますよね。
「全然大丈夫じゃない」ならわかるけど、「全然大丈夫」って文法的には合ってないんじゃないかと妙な感じがするんだけど、もうすっかり定着しているような感じがします。
定着してしまったら、文法的に変でも新しい日本語になって、そんなふうに言語は変化していくのかもしれません。


今、日本です。

なんだか急だったし、体調もあまりよくなかったのですが、だんだん元気になってきました。


久しぶり(3年ぶり)に日本で気がついたこと。


食べ物の匂い。各駅、または駅付近に立ち食いなどの食べ物の店があるからでしょうか、駅のホームでも道を歩いていても、食べ物(しょうゆ)の匂いがする。

よく「日本に着いたとき」感じるというのは聞きますが、こんなあちこち匂ってたっけ?と思ってしまった。


マスクしている人が多い。

季節柄でしょうか?イタリアはまず、いませんから....


スカートはいている女性が多い。

この寒いのに、しかもミニ。イタリアだったら娼婦と間違えられそうなファッションの若い女の子も多い。


男性のしゃべりかたがソフト。

ソフトっていうか、優しいというか、穏やか、というか...

そのほうが受け入れられるのだと思います。女性に対してだけでなく、社会的にも、仕事上でも。


今日はこんなところで。




11月12月と降り続いた雨、クリスマスから大みそかにかけてはかろうじて降らなかったものの、年が明けてからまた、雨が降ったりやんだりしています。


最近、見かけるのがこういう長靴(雨靴)。

ローマの平日@裏話-haga

日本で見るタイプとは違って、いかにもプラスチック!というシロモノ。


花柄、ヒョウ柄、チェック柄とか、無地も様々な派手な色が。
ブランド物からも出ているらしいです。



今までは雨が降っても通り雨で、そんなに降り続くことはなく、大人の雨靴そのものが、魚やさんの黒いゴム長くらいしか存在しなかったのでは、と思われるイタリアですが、ここに来て、雨が続き、それも道路の設備が悪くて、あっというまに川のようになったりするので、「必需品かも」と感じる人々の購買心をくすぐるのかもしれません。