イタリアは結婚しても夫婦別姓が普通のようです。
日本は「籍を入れる」という言い方をよくするので「結婚同姓になること」という考え方がありますが、イタリアは結婚届を出しても姓は変わらないようです。イタリア人同士でも、対外国人でも。
もちろん、希望して変わる人もいるようですが。


例えばロッシ氏と結婚した女性がシニョーラロッシ、と言われる、呼ばれるってことはあっても、女性の身分証明書、保険証、パスポートその他の姓は変わりません。
(未婚を既婚に変更するだけ)


建物のインターフォンにはよく両方の姓が書いてあったりします。
大家の名前が書いてあって、住んでいる人と関係ないことも多いです。


子どもが生まれたら父親の姓を名乗ります。
そうすると、消えていく苗字もあるんだろうなあ、と思うのですが、そのへんのところはよくわかりません。


ガラスの指輪をはめてた友人が新しい指輪がほしくなって、どれにしようかな、とお店で試しにつけたりしていたら

その夜に、持っていた指輪を落として割ってしまった」と言う。


「それってさ、指輪が”もう私は必要ないのね”ってジェラシーで壊れたのかもよ。」と言ったら
「え???そんなことって....」と半信半疑(というより9割疑)の様子だった。


「私、ときどき物も生きてるんじゃないか?って思うことがあるのよ。たとえば、腕時計を複数持っていて、一つだけお気に入りのをいつもつけていると、別の時計が、電池はあるのにとまっちゃうの。電池を変えても同じ。それをずーっとつけているときは、そんなことはなかったのに。(もちろん手巻きでも自動巻きでもないバッテリー時計)。PCや携帯でも特に故障でもないけど、人によって、調子がよくなかったり、合う合わないがあるでしょ?あれも物が生きているように思えて....」
とそのとき、話していたのだった。



それから何か月かして。
最初の友人が「またなの!」と言う。「今度、こういうピアスがほしいな。」と口に出して言ったら、その日につけていたピアスを落としてなくしてしまったのだとか。


「頭の中であれほしいな、とか買おうかな、と考えることはよくあるけど、口に出してしまうと、だめみたい。」と私の「物の心」論を信じ始めた様子。


口に出してしまった時点で、古い物が必要となくなった転換期なのかもしれない。


私の場合、ピアスなんてしょっちゅう落としたり無くしたりするから、その度に理由をつけていてもきりがないのだけど、物が人の心を読んで自ら怪奇現象を起こす、ということはないにしても、機械や物理的論理とは無関係に何らかの反応をしたりすることもあるのじゃないか?と思えるのです。

フェルメールの模写の「白黒絵画」で思い出したのですが、テンペラ画を描いたとき「最初にで着色」するという方法がありました。

14世紀の本に書かれた画法で、それに従ってテンペラ画を描いたときのものです。緑「Verde」からこの画法を「Verdaccio」と言います。



tempera4

最初は緑

tempera3

緑+色

tempera2

緑+色の繰り返し

tempera1

こんな感じ。


いきなりその物の色をおくまえに、または「色の上に影の濃い色をおく」のではなく、最初に濃い色(緑や黒)をおいてから、色をつけるのですね。

どう違うか、そのほうがいいのか?

それはわかりませんが、一つの方法として紹介しました。








昔昔、私が日本で学生のとき、ゼミでの最初の課題が「フェルメールの絵の模写」でした。
キャンバスも手作りで、材木をのこぎりで切って、布を張って、膠を溶いて塗り....


今でも印象的なのは、色をつけるまえ、白黒で明暗をつける、という方法。
まるで、白黒写真のように、最初、全部白と黒で塗り分けるのです。
その上から、色をつけると、ちょっと色をのせただけで色が活きてくる感じでした。
途中経過を写真にとってればよかったのですが、当時はそういう発想もなかったです。


17世紀頃にそういう画法があったとしても、フェルメールがその画法で描いていたかどうかは、未だに謎です。もしかして絵の具を節約する画法かもしれません。
青などの染料は高価だったというし。


フェルメールといえば「真珠の耳飾りの少女」という映画があります。
ちょうどイタリアで修復学校に行っているころ上映になっていて、学校ではかなり話題になっていまし
た。(美術史と修復理論の先生がお勧めしていました)


当時の画法が垣間見れるし(白黒画法はとっていなかった)、何と言っても「美しい」映画だから。

どのシーンをとってもフェルメールの絵から切り取ったような...

そして、繊細な心、敏感な感覚を、はっとするほど美しく描いてある映画でした。



vermeer

”レンブラントからフェルメールまで、フランドル派とオランダの17世紀”
という展覧会に行ってきました。


イタリアの展覧会はわりと長期にわたるものが多く、今回も11月11日から来年の2月15日まで、まだ2度目の日曜日とあって、美術館の前は行列。出るころにはもっと長い行列でした。私は15-20分ほど待ったけど、4時すぎに来た人たちは1時間待ちくらいだったかも。


待ってるとき、後ろにいたイタリア人女性が「イタリア人の絵は何百回も見たけど、レンブラントやフェルメールをイタリアで見る機会なんて、まずないから。」と話しているのが聞こえてました。私も同感だったので「同じ考えの人たちで混んでいるのね。」と思ってしまった。


大きくタイトルうっている割には、レンブラント、フェルメールの作品はちょっとだけで(え?これだけ?と思ってしまった)その他ヴァン・ダイクやルーベンス、フランツ・ハルスなどもあったけど、彼らの絵の中でも傑作のほうではなく、その他の有名でない作家のものが多かったです。


でも、よかった。
というのは、同時期の同地方における絵画を見ると、共通した空気みたいなものを感じられて。


「イタリアにはない、イタリア人にはない、空気」


あるものには人の重厚さや深さ、あるものにはぴーんと張ったような緊張感、乾いた寒い空気、見透かすような視線.....


レンブラント派の無名の画家の肖像画があったのですが、兜(金色)と鎧がものすごく立体的で、浮き出ているようなのがありました。

写実的な絵」はたくさん見たことがあるし「写実的、リアル感たっぷり」というだけで、絵は感動するものではありません。でも、この絵は「本当に絵なの?ここの部分だけ浮彫にして立体的にしてない?」と思えるほどで、また肖像画の顔が人生深い渋い顔で....


見ていた女の子たちが「この絵、なんて美しいの、こんなの見たことがない。こわいくらいだわ。」と言っているのが聞こえました。
イタリア人が美術館にいっても有名絵画だけを見て「見たことに満足」しているのではなく、無名の画家の描いたものでも、絵そのものに心から感動しているのが、伝わってきて、そのことにうれしくなりました。



2月15日まで開催しているので、機会があるかたは足を運んでみてください。


場所 Museo del Corso, Via del Corso 320
火曜-日曜 10:00-20:00(月曜閉館)


http://www.museodelcorso.it/en/index.pl


皇帝ネロの時代、(1世紀)に殉教したプラッセーデ(プデンテ元老院議員の娘。キリスト教徒をかくまった)の遺体が葬られた井戸のまわりに9世紀に建てられたという教会。


ここの教会のがすばらしいのです。9世紀当時のものらしいのですが、12-3世紀の絵画よりも新しい時代のものかと思えるほどで。



prassede1


prqssede2


また1223年にエルサレムから運ばれたという「イエスが鞭打ちにされたコロンナ(円柱)」までありま
す。

prassede3


本物???


テルミニ駅近く、サンタ・マリア・マッジョーレ教会のすぐ近くにあります。サンタ・マリア・マッジ
ョーレほど有名でもダイナミックでも大きな教会でもありませんが、観光客も少ないので、静かに鑑賞・お祈りできます。

殉教したプラッセーデや9世紀にこの教会やモザイクを作った人たちやその後1000年以上にもわたってこの教会に足を運んだ人々の歴史を感じながら.....


住所 Via di Santa Prassede 9a

時間 7-12:30、16.00-18:30




イタリアに音楽留学に来ている日本人などに会うと、滞在1-2年でイタリア語がペラペラだったりする人が多いのです。
私の1-2年目は片言でとてもあんなふうにはしゃべれなかったなあ、と思う。今でもちょっとましになった程度だけど。


音楽をやっている人って、耳がいいから、外国語の言葉も「」としてとらえて、覚えがよかったり、覚えたら忘れにくい、ということがあるんじゃないか、と。


私も子どものとき、ピアノをやっていたことがあるので、耳だけは絶対音感があって、小学生のころから楽譜なしにテレビのアニメソングや歌謡曲を弾いたり音楽室で皆で歌ったりしていたものだけど、せいぜいその程度で、音楽の道に進む力量情熱もなかったのですが、今思うと、それでもその音感が語学にもちょっとは役立ってるのかもしれない、とも思うのです。

音感ゼロの人に比べたら、の程度ですが。


だからプロの音楽家の人たちは相当語学力も達者だったりするのではないかと。(実は努力をしてぺらぺらになったのかもしれませんが)


じゃあ、日本でミュージシャンと呼ばれる人は皆、英語とか語学が得意か?といえば、そうじゃないと思うし、世界的に見ても、そうじゃないでしょうし、音楽はできるのに母国語しか話せないという人も多いでしょう。


逆に、何カ国語も母国語のようにペラペラにしゃべる欧州人の友人がいるのですが、彼女は「音楽は苦手」と言います。単に特別音楽教育を受けなかっただけだろうと思うのですが。


そういうわけで、音楽の才能語学の才能必ずしも比例するわけではないし、どちらかだけが得意な人もいるでしょう。(どちらも得意な人もいるだろうし、どちらも不得手な人もいるでしょう。)


でも、「音楽の才能がある人は語学も才能がある」という傾向はあると思います。あくまで傾向で、それも単なる私の推理ですけど。

他にも語学は暗記力記憶力(私はこれが弱い)や、周りの環境(誰と話すか?誰を参考にするか?)、日々の努力の積み重ねといったことが必要だから「音楽をやれば語学力がつく」という話ではありません。


laurap2

今日、スペイン広場にラウラ・パウジーニが来て歌いました。


特に前宣伝もしてなかったし、特にファンで情報をキャッチして来た人以外は、突然の生ライブにびっくり「ラッキー!」というところだと思います。


laurap1

本日もまだまだ、ローマの町はデモであちこち渋滞になっていたり群衆で混雑していたり、だったうえにこのコンサート、スペイン広場は人だかりだったようです。


laurap3

ラウラ・パウジーニといえば、イタリア人ですが最近はイタリア国外のほうが活躍しているのじゃないでしょうか。
歌はよく流れているけど、日本のテレビの歌番組の類などもないイタリアでは、彼女が歌うのをテレビで見るのもどこかのステージの中継くらい。それが、いきなり生なのですからファンは涙して喜んだようです。



それもスペイン広場の階段をステージとした特設会場。入場料なし


彼女の歌は聞いていて切なくなります。歌唱力はすごくあるし、イタリア人だけでなく、世界中で支持されるのもわかるのですが、私のイメージ的には演歌を聞いている感じ.....(せつなくて)

個人的には嫌いじゃないのですが、どっぷりつかりたくない....


でも「彼女の歌を聞いてどんなに励まされるか。」という人、多いのです。

彼女の人間性が歌を通して表現されている、伝わってくる、強烈なもの......それがラウラ・パウジーニの魅力じゃないかなあ、と思えます。


croce

ミシンでエプロンやタオルに名前を入れてくれます。


私事ですが、日本に甥っ子が生まれたので、作ってもらいました。(写真の8ユーロ、9ユーロなどの表示は材料費込の値段です。)


名前をアルファベットで書いて「この名前で」と言うと、下書きすることもなくダダダーーッと一気に仕上げてくれました。その間1分ほど。


「すごーい。下書きもしないで、うまいねえ。」と言わずにいられませんでした。


ボタンつけもできないイタリア人、ということも書いたこともあるけど、プロはすごいのです。(その差が激しい。何事にしても)


スペイン広場からコルソ通りにぬける通りの一つ、クローチェ通りにありますので、興味のあるかたはのぞいてみてください。



muji1

ローマにも無印良品の店ができました。トレビの泉の近く、トリトーネ通りにあります。


muji2

<MUJIとは?>


ずいぶん何年も前から他の欧米諸国には出ていたそうですが、ローマはここ最近です。(もう何か月かなりますが)


たいてい日本円で表示してある約2倍のユーロ価格がついているのですが...
日本円をみなければ「高い!」というほどでもない気がします。それだけ普通の物価が高いから.....

お店は女性客でにぎわっていました。